個人店らしきラーメン店は入口が小さく、少し染みのできた暖簾が掲げられていた。中に入るとカウンター席しかない、本当に小さなラーメン屋さんだ。「いらっしゃい!」と大将の元気のいい声が響く。私はペコリとお辞儀をして、樹くんのあとに続いた。「ここ俺のお気に入り。メニューはラーメンだけで、トッピングが選べるんですよ」手元にメニューはなく、樹くんの視線の先をたどると壁にラーメンと大きく書かれ、トッピングの内容が手書きで貼ってあった。「俺のおすすめでいい?」「うん」見てもよくわからなかったので、樹くんおすすめを紹介してくれて頼もしい限りだ。「はい、お待ちっ」しばらくすると目の前に差し出されるラーメン丼。熱々の湯気が立ち上ぼり、美味しそうな香りが食欲を誘う。 麺の上にはチャーシューとメンマ、キクラゲ、それに味玉がのっている。「美味しそう。いただきます」ひとくち食べただけなのに、その美味しさに目を丸くする。家で作るのとは全然違う味に感動してしまった。「ん~、美味しいっ!」落ちそうになる頬を押さえながら樹くんを見ると優しく微笑んでいて、その柔らかい表情に図らずも私の胸はドキッとしてしまう。また、そんなふうに笑って……。胸のドキドキを気にしないように、目の前のラーメンに集中した。
一通り見て回った後、私たちは博物館を後にした。「お腹すきません?」「そろそろランチの時間?」私は腕時計で時間を確認する。 十一時半を過ぎたところだった。「食べたいものあります?」「特には……。あ、こういうときは食べたいもの言った方がいいのかな? 言わないと優柔不断に思われたりする?」「は?」私の質問に樹くんはポカンとする。 いや、真面目に聞いているんですけど。「あー、そこはそんなに気にしないかなぁ。姫乃さんってほんと真面目だよね」「……そこがダメなとこ?」「そこがいいところ!」「いいの?」「いいじゃん」と言われても、納得できない私は頭を悩ませた。 ちょうど近くの店の前に立てられた幟を見て、私はふと思いつく。「そうだ、ラーメン屋さんに行きたい」「そんなんでいいの?」「行ったことないの」「えっ! 姫乃さんってお嬢様?」「まさか。お嬢様はカツ丼特盛買わないよ」「確かに」「なんか一人で入れなくて、友達とご飯食べるときもラーメン屋さんってなかなか行かなくない?」「俺は行くけど。まあ、女の人はそうなのかな? じゃあ行きましょうよ、ラーメン屋」樹くんは私の提案をすんなり受け入れてくれ、ここから割りと近くにあるという樹くんお気に入りのラーメン屋さんに連れていってくれた。
「博物館よく来るの?」「たまにね。好きなんだ、こういう雰囲気。昔の息吹が感じられて、その時代の一コマを現代から覗き見ている感じ。すごく好き」姫乃さんは両手を胸の前で組み、うっとりと思いを馳せる。何かを想像しているであろうその表情は、百面相のようにくるくると変わって面白い。しかも何だか恍惚の境地に入っている様子だ。 どんな顔をしているんだよ、どんな顔を。「ふーん。覗き見って、姫乃さんエロいね」からかうと、はっと我に返り「ちょっとそういう意味じゃないよ」と頬を染めながら慌てる。 何だこれ、可愛いな。「わかってる、わかってる」「もう、またからかって。樹くんなんて知らないんだから」姫乃さんは顔を真赤にさせながらも、頬をぷくっと膨らませてそっぽを向いた。そしてそのまま一人で歩いていってしまう。あ、やば。 俺はまた調子に乗ったかもしれない。姫乃さんは先輩なのに、可愛いからついからかいたくなってしまう。さすがの姫乃さんも怒ったのだろう。「ごめんって。ごめんなさい」呼びかけても反応してくれない。 いよいよ、やばい。焦った俺は姫乃さんの腕を掴んだ。「姫乃さん、機嫌直して」腕を掴まれたことでピタッと動きを止めた姫乃さんは、小刻みに肩が震えている。「姫乃さん?」心配になって彼女を覗き込もうとした。 と、そのとき――。「怒ってないよーっだ」ガバッと顔を上げた姫乃さんは、満面の笑みで俺を見上げる。いたずらっぽく笑うその顔は無邪気そのもので、可愛いを通り越して愛おしいとさえ思った。「樹くん、びっくりした?」「……うん」びっくりした。 自分の感情の揺れにも、びっくりした。「えへへ、大成功~」姫乃さんは嬉しそうにニコニコ笑う。 人の気も知らないで。 まったく……。「……その笑顔は反則でしょ」「え? なになに~?」「なんでもないですっ! さ、行きますよ」この感情がなんなのか、わかってしまった。だけどそれを認めるにはまだ早すぎる気がして、気づかないふりをした。確実に俺は、姫乃さんに惹かれている――。
「これ、カバンにつけちゃおうかなぁ」「姫乃さん、趣味渋いよね。ウケる」いや、まったく。完璧で高嶺の花だとか言われる姫乃さんが、カバンに金印付けるとか、ギャップが面白すぎる。「こういうところが、ダメなところなのかなぁ?」「全然、ギャップ萌えするよね」「……ギャップ萌え? それメモったほうがいい?」「まさか。俺もカバンにつけよ」メモるとか、なんだよ。おもしろ。まあ、姫乃さんにとってみてはデートの練習だから、いろいろと勉強中なのだろうけど。俺の中では、もう練習とかどうでもよかった。純粋に姫乃さんとのデートを楽しんでいる。俺も姫乃さんと同様、カバンに金印ストラップを付けた。黒のカバンに金色の金印が愛くるしく揺れる。こんなのを付ける俺は、完全に姫乃さんに流されている。「姫乃さんとお揃い」掲げて見せれば、姫乃さんは柔らかく笑ってくれた。それがまた、嬉しい。「常設展は?」「行きたい。樹くんつまらない?」「全然。めちゃくちゃ楽しい」つまらないわけがない。 楽しいと言ったら姫乃さんはよかったと笑った。 うん、どう考えても楽しい。楽しい以外、言葉が見つからない。デートの提案をした俺を褒め称えたいとさえ思った。……大げさかもしれないけど。
出口手前にあるグッズ売り場へ、姫乃さんは吸い寄せられるように入っていった。好きなんだろうなこういうの、と思いつつ後ろをついていく。グッズを手にとっては「いいなー」とか「素敵」とか、なにやらときめいている様子だ。その中でも、金印のレプリカストラップの前で動かなくなった。手にとってみたり、かざしてみたり、楽しそうだ。「ほしいの?」「うーん、迷ってる。だって使い道ないじゃない。だけど欲しくなっちゃうこの気持ちはなんだろう? 今、自分の物欲と戦ってるの」「あー、わかる、その気持ち。じゃあ俺がプレゼントするよ」勝手に手が動いていた。買ってあげたいと思ってしまった。なんだろう、この気持ちは。このストラップを買ってあげたらきっと姫乃さんが満面の笑顔で喜ぶ顔が想像できてしまったから。金印ストラップを会計に持っていこうとすると、姫乃さんが慌てる。「待って、自分で買うから」「俺が買ってあげたいの」「だけど……。じゃあ私は樹くんの分を買ってあげます」「俺? 別に姫乃さんほど金印ほしくないけど」「記念だよ。初デートの記念。あ、初なのは私だけか。ごめんごめん」ほんのり頬を染めながら照れ笑いする姫乃さんはとても可愛らしい。初デートの記念、とか。練習とか言いながら、そんな風に考えてくれることも嬉しかった。「うん、俺もほしい。初デートの記念」言えば、姫乃さんはニッコリ笑った。 とても嬉しそうだった。
姫乃さんの見たがっていた、漢委奴国王印展は想像以上に人気だ。なにしろ本物の金印が展示されるとだけあって、話題性は抜群。金印だけじゃなくたくさんの過去の遺産が展示されているけれど、やはり目玉の金印のブースには人が途切れることなく張り付いており、姫乃さんはその流れに乗れないでいた。そういうところ、遠慮がちなんだよな。 行きたいけど人が来るから譲ってしまう、を繰り返す。結果、あまり前に進んでいない。もう一歩、図々しくなるだけでいいというのに、どんくさいというかなんというか、それが姫乃さんの優しさなのかもしれないけれど。人の流れに沿って姫乃さんの肩をぐっと押す。その勢いで、ついに姫乃さんがショーケースの前に行くことができた。「あ、ありがと」振り向いた姫乃さんが近い。思った以上に。当たり前か、こんなにも混んでいるのだから。律儀にお礼を言う姫乃さんからまたふんわり甘い香りがした。思わず酔いしれそうになる気持ちを、無理やり金印に持っていく。「すごい、教科書でしか見たことないやつ」「うん。田んぼの中から出てきたんだよ。私なら気付かない。昔のものが残ってて、今この目で見られるってすごいよね」「卑弥呼と関係あるんだっけ?」「そう言われたりもするけど、わからないみたい。でもロマンがあっていいよね」コソコソと喋ると、なんだか二人だけの秘密みたいでドキドキする。 話してる内容は秘密も何もない、金印のことなのに。